神楽の空気

小崎・川の口の神楽を観させてもらった。昨年に引き続き、今年で2回目。

昨年の夏から何度か川の口集落を訪れていて、集落の人たちとは一緒にいくつかの作業をして、いつの間にか顔見知りになれたと思う。

道切りと呼ばれる下草刈りを手伝って、古家の壁と天井を壊して、粟を収穫して、米を収穫した。

川の口に訪れるたびに誰かが宿に様子を見に来てくれたり、時には野菜や椎茸や蜂蜜を譲ってくれたり(とてもおいしい!)、山を案内してくれたりした。

夜になると、集落のバーベキュー場(憩いの広場?)で宴会を開いてくれて、そこで食べさせてもらえた猪肉や、お母さん方が作ってくれた豚汁がまたとてもおいしい。

皆何をしていても冗談を言い合っていて、楽しく笑っている。一緒に作業をしていると、川の口の皆さんの手際の良さに驚かされる。意思の疎通が早く、阿吽の呼吸があるのだなと感じる。

明るい笑い方をして、健康的な考え方をするなあ、と思う。

そんな風にして川の口の皆さんの普段の姿を知れているので、ハレの場である神楽の舞台を見ると感動してしまう。

ヤッケを着て一緒に作業をしていた彼らが、神楽の日には衣装に身を包み、神具を構え、神妙な面持ちでそれぞれの舞を舞っている。

神楽は神事であって、伝統芸能だ。そういうものは神職の方など専門の人が身につけている技能だと思っていたこともあり、村の人が神楽を舞うことが当たり前になっている文化に驚かされる。

ある奉仕者(ほしゃどん)の方は神楽が始まる直前、神迎えや御神屋で唱える文章が書かれた紙を見ながら「なんて書いてあるか全然わからん、飲みすぎた…!」とずっとこぼしていたのに、いざ御神屋が始まった途端、A4の紙で数ページ分の唱教を太鼓を叩きながら平然と唱えあげた。

集落で話したときには控えめな性格に思われたある女性は、せり唄という神楽を盛り上げるお囃子を歌った。彼女が歌う度に場がほんわりと暖かくなったように感じた。何か琴線に触れる声で、懐かしい気持ちになって、ずっと聴いていたいと思う。

途中で休憩の時間があって、婦人会の皆さんが作ってくれた蕎麦やうどんが振舞われた。おいしくて暖まる。椎葉のお母さん方の作る料理は本当においしくて、きっと素材のおいしさもあるだろうけど、地区に伝わってきた味付けや手間のかけ方があるのだろうと思われて、技を盗める機会があるといいなと密かに考えている。

神楽の舞は、静かなようで激しくて魅入ってしまう。終盤で舞われる「稲荷」の神楽を観ていて、すっかりその鈴の音に引き込まれてしまい、それこそ狐に化かされたような気分になった。

舞殿の雰囲気が好きだ。

奉仕者の他にもその家族など村の人たちが御神屋を囲んで座っていて、一緒に一晩を過ごす。皆で神様に敬意を示して、皆で笑って、皆でご飯を食べる。

自分はずっと都会で育ってきて、そんな風に地元の人同士が老若男女問わず、毎年そうして家族のように過ごせる場を持てたことがなかった。

よその人間がいても、隣に座った人が話しかけてきてくれて、神楽の意味や村の歴史について教えてくれたりする。あれだけの老若男女が集まっていて、人と人の垣根がないように思われる場があることはとても尊いことだと思う。

神楽は明け方の3時頃まで続いて、翌朝の片付けにも参加をさせてもらった。

奉仕者が準備も片付けもするようで、やはり完璧な手際の良さの前に邪魔をしてしまったかもしれないけれど、一緒に作業をすると少しだけ村の仲間になれたようで楽しかった。

椎葉村は自分の故郷ではないし生活圏でもない。

それでもずっとあの神楽の場がずっと続くように、陰ながら応援していけたらと思う。


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