友にひかれて
先日、初めましてをした友人が、これから自分は椎葉村に住むんだと話してくれた。
彼と僕はどこか似ているようで、一緒にいると正直なところ、少しくすぐったい。
興味関心のある分野が重なっていたり、共通の知人がいたりと、彼のことをもっと知りたいと思うまでに、そう時間は掛からなかった。
そんな彼が惚れた“椎葉村”に触れたくて、足を運んだ日の話。
椎葉村では、彼の大好きなおじいちゃんを訪ねることになっていたが、早々に大遅刻。
約束の時間を大幅に過ぎてしまっていた為、急いで山道を登っていくと、そのおじいちゃんが竹を切り出し、道路横の崖に台を作っていた。
聞くと、牛の餌となる牧草を保管するための場所を作っていたそうな。
その発想はなかったなあ、と関心しながら早速お手伝いをすることに。
竹の切り出し方、組み合わせ方、しばり方などなど、初めてのことが目の前に溢れていた。
作りは見せてもらったから、次は自分でも作れる気がする。やってみたい。
牧草を積み終えると、次は牛を牛舎に戻すというので見学させてもらうことにした。
ここの牛たちは、日中は放し飼いにされている。
おじいちゃんから牛を牛舎まで連れてくるよう頼まれていた私の友人だったが、牛は彼の何倍も大きい上に、彼のことを知らない様子。
知らない人に手綱を握られるのは不安なのだろう。
苦戦する彼に、しょうがないなあと言わんばかりに手を貸すおじいちゃん。
このやりとりに、彼の椎葉村でのこれまでを垣間見たような気がした。
牛を牛舎に入れてひと段落すると、おじいちゃんが温かいお茶を入れてくれた。
お茶をすすりながら、おじいちゃんはずーっと車を持っていないという話をしてくれた。
田舎は車がないと生活できないからね、という話をよく聞くだけに衝撃だった。
最初は、こんな山奥で車なくて生きていけるんですか!?って思ったけど、そもそも今目の前に生きている人がいるんだからそうなんだろうな、とすぐ思い直した。
車で街に行けない生活というのは、制限のある生活だ、とも言えると思う。
でもだからこそ、自分で生きるために必要なものは作るしかない。
食べ物しかり、道具然り、建物然り。
むしろ、昔はそういう生活をしている人がほとんどだったはずだ。
買うのではなく、作る。
そうして、生きるための術を獲得してきたのだろう。
田舎で生きる人の言動は、なぜこんなにも力強いのか。
田舎で生きる人に、なぜこんなにも惹かれるのか。
あの時、その理由の一つにやっと触れられた、そんな気がしている。
帰り際、
また行きます。
と伝えると、
次はもっと早くきてね。
と冗談まじりに、送り出してくれた。
頬が緩む。
今日1日を味わい直すように、一つ一つ思い返し
帰りたい場所が、また一つ増えた。
車をはじめとして、社会システムやサービス、テクノロジーなどを活用することによって、僕たちは、物事を最小限のエネルギーで、よりスピード感をもって進めることができるようになった。
それは、とても快適だし、楽だし、便利だ。
でも、それに頼り切ってしまうと見落としてしまうものもあるように思う。
頼ることがいけないことだとは思わない。
頼ることと、自分の手で生み出せること、そのバランスが大切なのだ。
そんなことを思った帰り道。
椎葉村という、ある意味制限のある場所で、友人がどのように生きていくのか。
とっても楽しみだ。
次はしいたけの美味しい時期に、また会いに行こうと思う。
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